松永酒造場の創業は、太平洋戦争後、奄美群島が米軍政下にあった昭和27年、初代社長松永清(きよし)が、港町・鹿浦に焼酎の酒造業を開きました。
妻のタケ子が杜氏を務め、銘柄は鹿浦に因み「まる鹿」と名付けられました。昭和33年、2代目社長松永仁が東京に営業所を出店するなど精力的に商いを続けていましたが、昭和40年、徳之島の5つの酒蔵が共同瓶詰め会社を設立し統一銘柄となったことを機に「まる鹿」という銘柄は販売中止となりました。焼酎ブームもあり昭和58年法人化、近代的な設備を整え、蔵を鹿浦から阿三へと移転しました。
奄美群島では酒造りはもともと女性たちの仕事でした。
「杜氏」の語源は酒造りをはじめ家事全てを司る女性を指す「刀自」といわれ、その精神は妻を表す「トゥジ」という島の方言に今も息づいています。
初代杜氏タケ子に始まり、二代目の玲子、三代目の晶子と、この蔵では代々娘が杜氏を継いできました。酒造りは子育てと同じ、「熱を出したら冷ましてやり、寒くなったら温めてやる。」女性の細やかな造りは脈々と受け継がれ優しい味わいを醸し出しています。
令和2年12月、三代目松永晶子は先祖から受け継いできた想いを胸に「マルシカ」を復活させました。三代目晶子は、平成3年に東京農業大学醸造学科を卒業。卒業を控えた年に父仁(ひとし)が他界し、卒業と同時に母と2人で蔵に立ちます。その母二代目杜氏玲子も平成15年に他界。両親から受け継いだ想いは半世紀の時を経て、
ニライカナイ(奄美地方で海の向こうにある神様・ご先祖様がいるという世界)からの贈り物として「マルシカ」を復活させました。